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湘南の先輩インタビュー
「湘南の先輩インタビュー」とは?
「湘南の先輩インタビュー」は、湘南に住む60代以上の先輩世代の方々にお話を伺うコーナーです。
現在の湘南の街並みや文化を作り育んできた、格好良くて気取らない大人たちがたくさんいる世代。
そんな先輩方に家造りの知恵や工夫、湘南暮らしのアドバイスをもらわないのはもったいない!
皆さまに成り代わって、素敵な湘南ライフを送る魅力的な先輩方にどんどんインタビューしていきたいと思います。
第三回は、鎌倉市・大町在住の、牧野晃一さん、牧野双葉さん夫妻にお話を伺いました。
先輩のプロフィール
牧野晃一さん
鎌倉市出身。70代。
鎌倉のイタリアンの先駆けともいえるレストラン「キビヤ」を始め、大人気の天然酵母のパン屋「KIBIYAベーカリー」、本格ジャズクラブ「ダフネ」など、鎌倉の名店を次々に立ち上げる。経営者であると同時に、オーダー家具等を手掛ける木工職人でもあり、お孫さんの誕生祝いには木工おもちゃを手作りする。
「Jazz Club DAPHNE」
https://jazz-daphne.jp/
「KIBIYAベーカリー」
https://tabelog.com/kanagawa/A1404/A140402/14014244/
牧野双葉さん
鎌倉市出身。60代。
週のほとんどを「ダフネ」に立ち、店舗の運営はもちろんアーティストのブッキングなどを手掛ける。
双葉さんに会いに来る常連客も多数。
夢は、毎年鎌倉・光明寺で実施しているジャズの祭典「鎌じゃず」を、鎌倉を代表する音楽イベントへと育てること。
「鎌じゃず祭」
https://kamajazz.jp/
インタビュー
—– 湘南に住み始めたのは、どんなきっかけで、いつ頃ですか?
晃一さん
僕は生まれたときからですね。実家が鎌倉・雪ノ下で布団の綿の卸をしていたんですが、先祖を遡ると、どうも江戸時代から鎌倉に住み始めたようです。
父が早くに他界しているので詳しいことが聞けていないんですが、光明寺に祖先の墓があって、石塔の形が少し変わってるんですよ。
住職がいうには、その石塔の形から判断すると、祖先は寺子屋の先生だったんじゃないかと言われています。
寺子屋は光明寺で江戸時代に始まったとも言われてるんですよね。
その昔、著名な有識者が立ち上げた「鎌倉アカデミア」という専門学校が鎌倉にあったんですが、その学校もこの寺子屋から発想されたといわれているんです。
双葉さん
私も鎌倉の雪ノ下で育っています。こうちゃん(晃一さん)のことも子供のころから知ってたんですよ。
年が9つ離れているので、私が小学生の時には、主人はもう大人でしたけど。
父と母が結婚した当初は、東京は戦争で焼け野原だったので、親代わりだった方を頼って、鎌倉に越してきたみたいです。
—– お二人とも鎌倉出身なんですね。晃一さんは、なんと江戸時代からとは…。すごいですね。
双葉さんのお父様お母様の鎌倉へ移り住む経緯は、戦後の情景が浮かぶようで、映画の1シーンのようにも感じます。
それでは、お二人が育った、当時の鎌倉の話をもう少し教えて頂けますか。
晃一さん
僕は八幡様(鶴岡八幡宮)の池の周りがホームグランドだったな。いかだを浮かべて遊んだりとかね。
その頃でもやっぱり怒られたけどね(笑)
双葉さん
私も八幡様ではよく遊んだな。太鼓橋(円弧型の橋)を滑り降りたりとかね。
あとは宝戒寺もブランコとかがあって遊べたのよ。盆踊りもしたわね。
晃一さん
宝戒寺は八幡様を右に曲がって突き当たったあたりにあるお寺なんだけど、僕はそこで野球をしたこともあったな。
けっこう狭いんだけどね(笑)
あと、今ももちろんあるんだけど、光明寺のお十夜っていうお祭りが、昔は本当にすごく大きなイベントだったの。
もう鎌倉の一大イベント。何百メートルも屋台が並んだり、サーカスとか見世物とかもあった。
すごく楽しかったのを覚えているなあ。
—– 神社や仏閣が遊び場だったんですね。何だかとても羨ましいです。
その後、お二人の青春時代が始まるわけですね。
その頃の話と、イタリアンレストラン「キビヤ」や、ジャズクラブ「ダフネ」のオープンに至る経緯もぜひ教えて頂けますか。
晃一さん
僕は布団屋の跡継ぎ息子だったから、嫌でも跡を継ぐことを考えて生きてたんだけど、一方でいろんな遊びも真剣にやったんだよね。
ヨットもやったし、バイクも好きで今もハーレーに乗るしね。
音楽は実家の布団屋に住み込みの小僧さんがいたんだけど、その中の一人がギターを弾いていて、教えてもらったのが最初かな。
それから、ハワイアンバンドを高校のときに始めるんだけど、だんだん飽き足らなくなってきて、徐々にジャズに傾倒していくんだよね。
そのうち、観客の笑い声なんかも一緒に入っているようなジャズクラブの収録版のレコードにしびれちゃって。
それで、ジャズバンドを友だちと組むことにして。「いつかジャズクラブを開いてやるー」なんて思っちゃうんだよね。
それが、今考えれば、「ダフネ」へ至る一歩目かな。
—– ジャズを巡る状況って、きっと今とは全く違いますよね。
晃一さん
そうそう。まだライブできる場所も少なかったからね。
昔はちょっとヤンチャな連中が、自分たちでダンスパーティを開いて、それでお小遣いを稼いでたんだよね。
最初はそういうパーティで演奏することが多かったかな。
極楽寺にあるヴィーナスでもやったことあるし、レストランとか市民会館みたいなところでも演奏したなあ。
双葉さん
その後になると、ディスコのようなパーティをできる場所ができてくるのよね。
晃一さん
あとは七里ヶ浜のプリンスホテルの下に大きな、それこそ100mくらいあるプールがあって、そこでも演奏できたの。
そこに「アイ・ジョージとザ・ジャパニーズ」っていうバンドが、来ることになるんだけど。
知らないかもしれないけど、その頃の超有名人なんだよ。
そこに一緒にバンドやってたメンバーが入ってたの。司会とかやってて、お前すごいじゃん、夢かなったじゃんって。
後に彼はミュージシャンやプロデューサーとして大成功するんだよね。
—–一緒にバンドをしていたメンバーが成功するってすごいことですし、本当に嬉しいですね。
その後、「キビヤ」や「ダフネ」にはどのようにたどり着くのでしょうか。
晃一さん
僕の母がやっていた布団屋は正確にいうと、原綿を仕入れて製綿して販売する「綿問屋」だったんだけど、200坪くらいの工場が今の永福寺跡地にあったの。
でも、そこが、史跡として大切に残していくという市の意向で、立ち退きになって。
だから、そのタイミングで思い切って布団屋を辞めて、雪ノ下の布団屋があった場所で、レストランを始めることにしたんだよね。
それがレストラン「キビヤ」の始まり。
お店の名前は、母親の実家の糸問屋の屋号である「キビヤ」から来てるんだけど、おふくろは女手ひとつで我々兄弟3人を育ててきて、まあ、それに報いるような意味でつけたんだよね。
それが1970年頃かな。レストラン「キビヤ」には六本木のピザの名店「ニコラス」からコックも来てもらったんだよ。
双葉さん
鎌倉で初のピザ専門店だったの。
晃一さん
そうそう。それで話題になったこともあって、軌道に乗っちゃったんだよね。
それで、キビヤの一階の小さなスペースにジャズクラブ「ダフネ」を作ることにしたの。
—–おぉ。ダフネは雪ノ下のレストラン「キビヤ」の下の小さなスペースがスタートなんですね。
ちなみに今も鎌倉で大人気の天然酵母のパン屋さん「KIBIYAベーカリー」はどんな経緯で立ち上げに至ったんでしょうか。
晃一さん
御成通りの「KIBIYAベーカリー」は、元々は鎌倉で一番古いパン屋「たからや」さんだったんだよね。
友人のお父さんが経営されていたんだけど、年齢もあって、娘さんがバトンを受け継ぐ形で、天然酵母のパン屋さんへと生まれ変わったの。
その時の店舗デザインはほとんど僕がやったんだよね。
しばらくして、その子がお店を一人でやるのが難しくなって、それで引き継いでくれないかって声がかかって。
ちょっと悩んだけど引き受けることにしたの。それが「KIBIYAベーカリー」の始まり。
その後は、イタリア留学から帰ってきた娘が引き継いでくれて、今に至るという感じかな。
—–なるほど。一家で経営に携わってらっしゃるんですね。
晃一さん
うーん。そうだね。結果的にそうなってるかな。
実は三女も旦那さんと一緒にウィウィっていうビストロをやっているんだよね。
そこもとってもいいので、ぜひ行ってみてね(笑)
—–そうなんですね。今度、ぜひ行ってみたいと思います。
最後にこれからの夢や目標などあれば教えていただければと思います。
晃一さん
僕は子どもや孫が元気でいてくれれば、それが一番かな。
夢は実はいっぱいあるけどね(笑)
双葉さん
私は、やっぱり「鎌じゃず」をもっと盛り上げることかな。
—–鎌じゃずとは?
双葉さん
光明寺の広い境内を使わせてもらって、毎年ジャズフェスティバルを開催しているんです。
最初は大塔宮で開催していたのですが、3年前からは光明寺に移り、昨年の開催でもう7回目になります。
鎌倉で野外で楽しめる音楽の祭典をしたいっていう夢がずっとあって。
晃一さん
そうだね。子どもたちや鎌倉の地域の人たちが、音楽をもっともっと楽めると良いね。
「鎌じゃず」を鎌倉の一大イベントに育てていきたいなあ。
—–素敵な夢ですね。大人が夢を語る姿って、かっこいいです。
きっとお二人なら実現されると思います。
今日は素晴らしいお話、本当にありがとうございました。